介護のいらない身体作りのための
ばあちゃんの思い出話
 


      戦時中から



 小学生時代
 ようこそ!

 私の誕生日は1939.3.18 です あれから86年目を迎えています。
戦争が、始まりそうなときに生まれたので、美しい子に育つようにと、それらしい名前がついています。

戦争については、他の書物に依頼することにしまして

ここには
私が記憶している戦争で体験したお話を残させていただきます

 私の兄弟は♂ 3人 ♀ 5人 その他に乳児を二人亡くしたとか?
産めや増やせの時代です、どちらのご家庭にも、多くのお子さんがありました

住まいは山間部にある普通の家庭、父親一人の働き、貧しい家庭で育ちました。

 


 普通に報道されている、激しい戦いの場を殆ど知りませんが
防空壕に入るとか・兵隊さんを旗を振って送り出す・・・
そのような経験は、記録に残っています


 


 この戦争での最大の記憶は 

この戦争で私は長兄をなくしました、小学校に入学直前の別れです。

 * 戦争に必要なものは、家庭内の 鍋・釜 まで皆持っていかれました。




食べるものがない  


 まずは、食品がない、成長期の子供たちに
、これは惨いことです。


              
 その後、あっという間に時が過ぎ、国民学校一年生(今の小1)

敗戦後、ですから、みじめなもの
”ないないずくし”です。

「食べるものがない」
一日中、食べるものがない、そんな日がありました

これは~残酷です

衣服・履物(はだし)・文具なし

当時の学校生活

裸足または自作の足袋で通学、廊下は裸足
ランドセル、とんでもない、布のふくろ・
教科書 先輩のお下がり

昼過ぎには下校、8月終戦となり、その後に”兵隊さん”が団体で学校を宿舎に


 私たちは、自分の机を抱えて近くの公民館や神社へ(ここが短期間 教室)
 初めて教わった文字は カタカナ
 名前は、それから覚えました(入学時に 自分の名前も書けません)
 同時に、教科の中に書道(習字)というのがありました。

 「ハト」「マメ」 神社には鳩・まめ、関係ありでしょ(^^♪

でも、
一年生
学年の後期にはもう学力の戦いがありました
組の担任が選んだ数名を放課後、教室に残し、新聞紙が真っ黒になるまで、書道の練習がありました

 どいうわけか、その中に選ばれていたので、言われる通りにしました
一定の期間が過ぎ、子供達も決まった作品をかけるようになりました

 今度はあるいて、延々と歩いて、他校に、地域の小学校数校が集合して、書道の揮毫会がありました
そこで、各区の学校もプライドがあります
 その揮毫の前には、毎回、その子たちは、教室に残されて遅くまで練習でした。
 これらの大会には、
二年生からソロバンが加わりました。

 三年生、初めて、脱脂粉乳の給食がありました。
 嫌いな人もありましたが、私には、何でもおいしい

 なにしろ、カリカリのかまきりのような体です。

 確か~このころ、知能テストのようなものがありました

日本の検査を受けた全学年(年数)で、一番下の点数だったそうです・・・(日本一 最悪)
・・・・・栄養状態が関連しそうです・・・・・

 このころから、アメリカさんのおくだりを頂いて、少しづつ、いろんなことが回復してきたようです

 
小学校六年生
学校では、男子は野球チーム、女子はソフトボールチームができました

 わからぬままに、私はキャッチャーを任され、チームでグローブを持つものは
キャッチャーとファーストだけ・・・。

 これも他校での試合にいきましたが、敗戦、残念でした。





 




このページはあかちゃんの頃から
戦後の大変な状態

自分でわかる、狭い範囲のことですが
衛生面では、いろんな病気がはやりました

頭にDDTをかけられたりしました

個人的には
時々、高熱を発していました

溶連菌ウヨウヨ
咽頭痛、頻発
(15歳 急性腎炎)
(19歳に扁桃腺切除術)



特に、食料品の不足は

個人の人生に大きく影響していると思います。





 



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